彼女の福音
弐拾 ― 別にナチュラルジオグラフィックチャンネルではない ―
「杏、僕は……もうだめだよ……」
「何いってんの陽平。あんた、あたしを置いてどこに行くつもりよっ!」
「杏……山は僕の……青春なんだ。山で死ねるんだったら……本望だよ」
「いやっ!陽平、そんなぁ……」
「水を注すようで悪いが、こんな小山で死ぬほどお前は軟にできていないのは、私たちがよおっく知ってるぞ、春原?」
ため息交じりに私は言った。二人の世界に行くのは結構だが、残された者のことも考えてほしい。
「それ、あんたが言う?」
「む?何のことだ?」
「あんただって、事あるごとに朋也と愛の現実逃避行に走るじゃない?いいじゃないのこれぐらい」
「よくわからないな。いつ私たちがそんな事をした?」
「いつもしてるじゃない」
すると、ぽん、と頭に手を乗せられる。
「おいおい、ケンカしてないでさ。それより、あそこできれいなところ見つけたぞ」
私のそばに朋也が立って、やれやれと笑った。
「ケンカなんてしてないぞ?うん、違う」
「そうか、じゃあ仲直りのちゅーだな」
「……私と杏がか?」
「いや、俺と」
「それって全然わけわかんないっすよねぇっっ!!」
春原の突っ込みが晴れ渡った秋の空に響いた。
「何だ、元気じゃないの。じゃあ陽平、荷物運び頼んだわね」
「アンタすっげぇ人遣い荒いっすよねぇ?!」
「いいじゃないの、どうせ辞書しか入ってないんだから。軽い軽い」
「軽くねえよっ!って、何でベルゲンいっぱいに辞書詰め込んでるんだよっ!!」
「それとも何?あんた、こんな可愛い彼女に重たい物持たせるつもり?」
きらり、と杏の目が光る。「ひぃ」と言いかけて、春原が凍りつく。
「じゃあさっさと行く」
「……はい」
とぼとぼと春原が観念して歩いた。
『ねぇ、今度の土曜、紅葉狩りに行かない?』
そう杏に誘われたのは、確か火曜日の夜のことだったと思う。
「土曜日か……いつもの四人でか?」
『ええそうよ。幼稚園でもそういうことするんだけど、下見というかね、やっておこうかなぁって』
「ふむ、まぁデートの口実にしてはまぁまぁだな」
『ちょっ、なっ、ち、違うわよっ!本当に下見なんだからっ!』
「わかったわかった。そういうことにしておこう」
電話越しに、「まったくもう」というため息が聞こえた。
私たちの親友である藤林杏と春原陽平が付き合い始めて二週間になる。と言っても、何かが特に変わったようには見えない。杏は付き合う前から春原のアパートに押しかけ女房をやっていたし、二人の関係は高校時代からよく言えば親しげ、悪く言えば主従のそれのようだった。強いて言えば、公式にデートをしたりするようになった、ということだけだろうか。
とまぁ、私は朋也に確認を取ると、土曜日の紅葉狩りに参加することとなった。場所は市の外れの小山で、何でもそこでの紅葉狩りは、幼稚園の恒例行事なんだそうだ。それからして、これが下見とは名ばかりのダブルデートだということがわかる。そういうわけなので、私は動きやすい服 − 長い間はいていなかったジーパンに、薄手のアノラック、そして丈夫そうなスニーカー − を準備した。ジーパンにおいては、多少の不安がなかったわけでもないが、無事はくことができた。朋也いわく「やっぱ智代って相も変わらずいいプロポーションだよなぁ」。恥ずかしいことを言うな、馬鹿。
「しかし、お前らホントに付き合うとはなぁ」
朋也が感慨深げに言った。
「へへん、うらやましいだろ」
「いや別に」
そして私を見る。視線で「お前がいるんじゃあ、うらやましくも何ともねえな」と言っていた。ま、全く、そんな事を視線だけでも言うなっ!い、いや、嬉しくないわけじゃないんだが。
「そう言えば、ボタンはこの頃どうしてるんだ?」
「あ……」
不意に表情の翳る杏。春原もへらへら笑っていた顔を神妙に改めた。
「ここんところ、いないのよ。幼稚園の近くに出ることなんてなかったのに……園児たちも、寂しがってる」
その口調からして、一番寂しがっているのが杏自身だということがうかがえた。
「前にもこういうことがあったんだけど、今度のはもっと長いのよ。どこ行っちゃったんだろ」
その肩に、春原が手を置く。
「そのうち帰ってくるよ、絶対」
「でも……でも、ずっとなんだから。前は、本当にすぐ帰ってきたんだから」
「男にはね、行かなきゃいけない時があるんだよ」
それは少し違う気がする。
「……あのね、猫とかそういうペットはね、死ぬ時、ふっといなくなっちゃうんだって。飼い主に何も言わずにどっか行っちゃうの。それでね、一人で寂しく死んじゃうんだって」
ぎゅ、と手を握りしめる杏。
「もし、もしもよ?ボタンがそういうふうにあたしに気遣って行っちゃったんだったら……もし、これでお別れなんだったら」
「馬鹿なこと言うなよ、杏」
強い口調で朋也が話をさえぎる。
「イノシシと猫は同じじゃないって。ボタンは絶対帰ってくるさ」
「そうだよ。だいたいボタンって、杏がいなくて寂しいから学校に遊びに来てたじゃん。そんな寂しがり屋が、何も言わずに消えちゃったりしないよ」
私は杏の手に自分の掌をおいた。
「信じよう。ボタンはいい子だからな」
「……うん。そうね。ありがと」
杏が笑った時、がさがさ、と近くの茂みがざわめいた。
「何だ何だ?!」
「クマか?」
何、くまさんなのか?
「えっ、そうなの?お、岡崎、早く、死んだふり死んだふり」
ばたりと倒れる春原。悪いが春原、それだとくまさんに「進呈……おいしいお肉……ぱちぱちぱち」ということになるぞ?
「……へぇ?クマ、ねぇ?」
いつの間にか杏の手には辞書が五つ。そして
がさ、がさがさがさがさ
「ぷひ?」
出てきたのは、一匹のウリボウだった。
「ウリボウ?」
「の、ようだな」
「ぷひ」
可愛らしく愛らしいそれは、私たちを見回すと、杏に近づいてくんかくんかと鼻を動かした。か、かわいい。
「ぷひっ!」
その胸に飛び乗るウリボウ。既視感に捉われた。
「お前、ボタンか?」
朋也が聞いてみると、ウリボウは「ぷひ?」と目を丸くした。
「どういうこと?ねぇ、イノシシって脱皮したっけ?」
「いやしないぞ。それに、脱皮は成長するためのものだ。体が大きくなることはあっても、小さくなることはない」
「でも、こいつは杏にすぐに甘えに行ったしな……」
私たちが首をかしげている間、杏はまじまじとそのウリボウを見た。そして
「やっぱり違うわよ。この子、ボタンじゃない」
「何でわかるの?」
「あたしはボタンを小さい頃からずっと育ててきたのよ?毛並みとかでわかるわよ」
そういうものらしい。
「ふ〜ん……でもここらへんは似てるわね……はぁはぁ、そうなの……」
「ぷ、ぷひぃ」
体のあちこちを触られて、結構気持ちよさそうなウリボウ。そして杏はふっと笑うと、茂みに向かって言った。
「ボタン、出てきなさいよ」
がさ、と茂みが鳴る。
「そこにいるんでしょ?」
しーん
「……それとも、あたしのこと、嫌いになっちゃった?」
すると、がさがさがさと騒がしい音をたてて、真っ黒のオスイノシシが照れ気に顔を突き出した。
「ボタンじゃないか!」
「ごふ」
「ねぇボタン、これ、あんたの子供でしょ?」
「ご、ごふ」
恥ずかしげにうなずくボタン。
「だめじゃない、彼女がいるんだったら、あたしに紹介しなさいよ。心配してたわよ、みんな」
「ごふ〜」
ぺし、と額を叩く杏。すると別の茂みから、少し小柄なイノシシがウリボウを数匹つれて現れた。ボタンと違って、牙が小さかった。
「こふ?」
今までありがとうございました。今回で「だんご大家族」は放送終了です。来週からは「イノシシ大家族」をお楽しみください。
どこかで古河さんが「だ、だめですっ!だんご大家族は永遠ですっ!」と言った気もするが、恐らく風の音だろう。
何でもイノシシというのは二月辺りに繁殖期を迎えるらしい。本来なら二ヶ月間雄は職も殆ど取らずに相手を探すのだが、まぁボタンみたいに一夫一妻制の世界にどっぷり使っていたら、お嫁さんをとる選択をしてもおかしくない。前回いなくなったのは、そういうことらしい。そして今回はまぁ、パパ出張から帰ってきたぞぉ、という感じらしい。
とまぁ、そんな話を通りすがりのメガネをかけた人懐っこいおじいさんに教えてもらった。
「たまには顔を出しなさいよね。急にいなくなるから、園児たちもさびしがるんだから」
「ごふっ!」
「こふ」
『ぷひ』
三種類の答えが一斉に返ってくる。
「でも全員いっぺんに来たら混乱するよねぇ……もしかすると警察がやってきて、銃で撃っちゃうかもよ?」
「ぷ、ぷひっ!!」
ボタン二世その1(適当に名前を付けた。今は反省している)がびっくりしてボタン妻(適当に(ry)の後ろに隠れた。
ずばごんっ
「あんたねぇ、あんな可愛いウリボウを怖がらせるなんて、どういうつもり?」
「ひぃぃいいいいいいいいっ!!」
先ほどクマ用に取り出した辞書で、春原の頬をぴたぴたと叩く杏。
「おー……やっぱ主従関係だな」
「奇遇だな、朋也。私も同じことを考えていた」
「二人で呑気に頷いてないでよっ!」
イノシシ大家族はもう一度鼻を鳴らすと、山の奥に入って行った。
「何だか……ひな鳥を見送る親の気持ちがしないでもないわね」
杏がふっと笑う。
「まぁ、これからも会えるんだから、そう重く考えるなって」
「そうだよ。それに、ボタンだってようやくこんな凶暴な親から逃げられたって嬉がっぐはっ!!」
春原……お前というやつは本当に生存本能というものがないんだな。
「それが春原クオリティ」
朋也が綺麗にまとめた。春原はというと、あまり綺麗に原形を留めていなかった。
「二人ともひどいっすよっ!!」
レジャーシートを広げ、杏の辞書を四隅に置いた。
「わーい、僕、この瞬間を今朝から待ってたんだよねっ!」
「甘いな春原、俺は智代の弁当を、昨日の夜から待ってたんだ」
「ふ、ふ〜ん?まぁ、僕は昨日のお昼ぐらいから心待ちにしてたけどね」
「はっはっは、悪いな春原、俺、昨日の朝のことを完全に忘れてたわ」
「二人とも、そんな下んない事で張り合ってないで手伝いなさいよっ」
二人の間を、辞書が音速の壁に近づきつつも通り越した。
「……春原、お前、彼氏だろ?何とかしろよ」
「無茶言うなよ岡崎。杏を止められる人って言ったら智代ちゃんぐらいしかいないって」
「あァ?まだ何かつべこべ言ってるの?」
『言ってませんっ!』
びし、と直立不動の姿勢で答える二人。
「ほら、朋也も手伝ってくれ。このお箸の袋をきつく結びすぎてしまったようだ」
ビニール袋を朋也に渡す。
「陽平、お茶注いで」
「へいへい」
とまぁこんな具合で弁当の支度はできた。
「……なぁ智代、まさかだとは思うがこの弁当は」
「朋也専用だ。嬉しいだろ」
笑顔で答えると、朋也の顔が心なしかひきつった。何故か目をつぶって覚悟を決めると、朋也は弁当の蓋を開けた。
「……クマか」
「ああ、クマだ。かわいいだろ?」
そしてそのかわいいクマさんの顔の両脇には、「朋也」と「ラブ」の文字を添えた。うん、愛妻弁当らしいなっ
「ああ。かわいいな、ともよ」
「うん?どうした、声に感情がこもっていないぞ」
「いや?そんなこと、ないよ?」
「ふ〜ん、へぇえ、ほぉお〜?」
隣から杏が覗き込む。
「え?何々?」
「いいえ〜?ただお熱いのね、お二人さん」
「え、見せて見せて」
春原が覗こうとしたとき、朋也は目をくわっと見開き、ものすごい勢いでご飯をかき込んだ。
「ぐむっむほっべほっごふっ」
むせた。
「そんなに急いでかき込むからだ、馬鹿」
お茶を手渡すと、一気に飲み干す。
「悪い悪い。いや、智代の愛情をこれ以上冷やかしの目にさらし……いや、手付かずにするわけにはいかなかったからな」
「……何だか担がれている気がするぞ」
「気のせいだって。それよりおかずは何だ?そっちも楽しみだな」
ご飯とは別にしておいた重箱を開けると、朋也だけでなく春原も驚嘆の声を上げた。
「二人で頑張って今朝作ったのよねぇ。感謝しなさいよ」
「ういっす!僕もう感謝感激っす」
「というわけで朋也」
「ん?何だ?」
勢いに乗じてやってみようとしたが、やっぱり少し恥ずかしかった。で、でも、二人はもう家族なんだっ!こ、これぐらいできて当たり前だ!そう思い直すと、私はカボチャの煮つけをお箸でつまんだ。
「あ、あーんだ」
「お、おう」
恥ずかしがりながらも口を開けてくれた朋也が大好きだ。
「うん、うまい」
「そ、そうか?うん、よかった」
「やっぱり智代のカボチャ料理はうまいな。全国都道府県中一番といっても過言じゃないな」
「朋也……馬鹿」
「うっわ、あんたらマジでバカッポーっすねっ!!」
「うるさいヘタレ」
「全く……杏も何か言ってやってよ」
苦笑しながら杏に話しかける春原。しかし杏はというと、口に手をあてがって何か思案していた。
「……杏?」
「……うよね。やっぱそうよ」
「あ、あの、杏様?」
「陽平っ!」
ばっ、と豚カツを一つ箸でつまむと、杏はそれを春原に差し出した。
「……ぁ、ぁー……」
「は?」
「だから……その……あー」
「あー?ごめん、何やってるの?」
「うるさいっ!黙って口を開いてなさいこのヘタレっ!!」
「ひぃいいいいっ!!」
そうやって戦慄きながらも口を開ける春原に、杏のお箸が近づく。
「あ、あ、あ」
近づき近づき、そして
「あーんっ!!」
目を瞑って一気に押し込む。
沈黙。
「ほ、ほがが」
春原のいつもより間の抜けた声が聞こえた。それに反応して、杏はゆっくりと目を開け、そして石になる。
「杏……」
「あまり慣れてないことをしようとするから」
「あ、あはは」
杏のお箸は、最後の瞬間で上に伸び、口を通り越してよりにも寄って
「ぼ、僕の鼻がぁぁぁあああああっ!」
そこに突っ込んだのだった。
「『あーん』はだな、互いの信頼と何よりも羞恥心を上回る愛がなければうまくいかない。今の『あーん』には愛が足りなかった。ただそれだけのことさ」
「呑気に説明してるんじゃないのっ!あ、ほら陽平、そんなに走り回ると取れないじゃないっ!!」
「豚が鼻に突っ込んだよぉっ!!飛べない豚はただの豚だアッ!!」
うんうん、と頷く朋也。その周りをわけのわからないことを言いながら走り回る春原。それをお箸を手に追いかける杏。
がんばれ杏。めげるな春原。らぶらぶ生活への道のりは、まだまだ遠い。
つづく
「何で戦隊ものみたいな終わり方なんすかねぇぇっ!!」